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NAGAO MINORU
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If it touches someone's eyes and heart, his adventure journey never ends.

ABOUT

About

長尾みのる(1929−2016)は、画家、装丁家・挿画家、イラストレーター、アートディレクター。

ジャンルを超えて生涯多彩に活動したアーティストです。

早稲田大学(旧)工芸美術研究所卒業後に就いた舞台美術の仕事を辞め、23歳のとき南米・ヨーロッパを巡る無銭世界旅行に出発。各国各地で絵を描いて糧としながら4年間に渡る放浪の旅を続けました。​

帰国後、小説の挿絵を描き始め、「アサヒグラフ」の連載で描いた作品が当時「イラスト」という新語で呼ばれ、日本で初めてイラストレーターという肩書きを持つことになります。

”衣料品会社の嘱託をやり、チャームスクールの講師をやり、服飾歴史の本を出し、それを使って洋裁学校の講師もやり、写真によるデザインをやり、小説の挿し画をかき、単行本の装丁をやり、長尾君は八百屋かいといわれる”(著書「絵の中の放浪」1961年刊より)

文芸小説だけでなく児童文学の挿絵も数多く描きました。単に絵を添えるのではなく本やページのデザインやレイアウトも手がけるグラフィックデザイナーでもありました。装丁を手がけた単行本は千数百冊に及びます。洒脱な文章を書き、俳句を詠み、自身の著書も多く出版されています。

そんな多才で桁外れの好奇心を持つアクティブな若きアーティストは、その後も長きに渡り途絶えることなく、晩年まで多岐多彩な活動を続けました。

旅先の情景を描いた色鮮やかな絵画、一瞬を素早く切り取ったスケッチ、ファッショナブルなイラスト、レコードやCDのデザイン、プライベートでもよく制作していたポストカード・・・数多くの作品が残され、それらは今も色褪せず、新鮮な印象や驚きさえ与えます。

長尾みのるのホームページでは、生前のままに残されたアトリエの地下にぎっしりと詰まった、一つ一つをめくったり取り出したりする度に輝きを放つように見える、そんな作品たちを、未発表のものを含めて少しずつ紹介していきます。

​どうぞお楽しみください。

History

History


「お金は持たず絵を描きながら世界を巡る」それは映画のような旅から始まった」

​ 長尾みのるは、「Graphity」と名付けた手作りの旅行記や、自分史記したノートを残しています。HISTORYはそれを基に作成しています。
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1929 (昭和 4)

6月4日 東京 中央区新富町にて誕生。

1945 (昭和20)

​陸軍士官学校入学の年に終戦を迎える。

1947(昭和22)

1948(昭和23)

1950(昭和25)

早稲田大学工芸学部(旧・工芸美術研究所)入学。

吉田謙吉舞台芸術研究所入門 。

早大卒業。

吉崎学院講師(洋裁学校)講師となる。

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1953-1956(昭和27-31)

23歳で横浜港から旅立つ。ハワイ洋上で24歳誕生日を迎える。

最初の寄港地はアメリカ・ロサンジェルス。メキシコ・パナマ・コロンビアを経由し、1954年目的地ブラジル・サンパウロに到着。この時懐にあったのは20米ドル紙幣1枚。絵を描いて売り、映画の看板や食堂に掛ける絵画などを描いて生活を始める。富裕層に絵が高値で売れるようになり個展も開催した。

稼いだ貯金で1955年ヨーロッパへ渡る。スイス、ポルトガルを経てイタリア、フランスに滞在、エジプト、レバノン、セイロン、ベトナム、フォリピン、香港 などを巡って1956年に帰国。

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1957-1960 (昭和32-35)

完成したての国産カラー印画紙で日本初の「カラーフォト・デザイン展」を銀座で開催。日本初のアートディレクターとなる。

帰国後に新聞や雑誌の取材が殺到、ラジオに出演するなど一躍時の人となり、「職業は何ですかと聞かれるので、画家というのも偉そうなのでアートディレクターと名乗った」という逸話が残っている。

1959年「MINORU NAGAO」を自費出版。初めて連載小説の挿絵を担当(週刊サンケイ)。

1960年 初著書「図説西欧服飾史」(青鳥社)出版。同年に結婚。

​新婚当時のアパートには、当時新人だった落語家・七代目 立川談志氏夫妻も住んでおり、家族ぐるみの親交を深める。

1961(昭和36)

アサヒグラフの大判の見開きで「亜香ちゃん」(永六輔、青島幸男、前田武彦のリレー小説)連載開始。この仕事で挿絵ではなく「イラスト」という和製英語が初めて使われ、日本初のイラストレーターとして注目を浴びる。

「亜香ちゃん」のタイトルは、連載開始当時、長尾、永、青島、前田4人ともに出産間近、もしくは生後間もない赤ちゃんがいたことから付けられたという。

 

​南米〜ヨーロッパの旅行記「絵の中の放浪」(南北社)出版

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1963-1970(昭和38-45)

1963年 銀座で個展開催。

1964年 日本コロンビアのグランドロビー大壁画のデザイン。

1965年 1ヶ月に渡るメキシコ旅行。

1966年 出版の著書「ソンブレロは風まかせ メキシコ旅日記 」(朝日新聞社)はベストセラーとなる。出版記念パーティーでは立川談志氏が司会を務めた。

1967年 目黒にアトリエ兼住居を構える。

1969年 イラストリーと冠された「革命屋 」( 東京文芸社 )「バサラ人間 」(駿河台書房)出版。その独特な手法や表現が話題を呼んだ。

1970年 光明寺の壁画を手がける

売れっ子となり多忙を極める中、時折り家計を任せていた妻に預金額を尋ね余裕があると思うと国内外へ旅行へ出かけて絵を描き続けた。

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1971-1980 (昭和46-55)

1981 - 1990(昭和56-平成2)

「名探偵ホームズ」シリーズ(学習研究社)、世界の児童文学名作シリーズ(講談社)をはじめ、国内外作家による少年少女向け小説や童話の挿絵や装丁を数多く手がけるようになる。一方でイラスト入門・指南書、絵とエッセイによる旅行記など、自身の著書も盛んに出版された。軽妙洒脱な文章でも才気を発揮し圧倒的な仕事量をこなす活動の全盛期でもあった。

'76年 講談社出版文化賞受賞。

'80年 読売国際漫画賞選考委員。

この時期の本人のノートには「大繁盛・疲労で病気」という記載もあるが、ブラジル、パリ、仙台、北海道など旅行の記述、連載開始、新規の依頼の記述がびっしり書き込まれている。

レコード・CDのジャケットのデザイン・イラストを100点近く手がける。

この時期までの文芸小説の装丁や挿絵の出版物は1000点を超え、お寺の襖絵を手がけるなど、ますます精力的に活動を続ける。

​1983年 目黒から杉並に転居。いち早くアトリエにカラーコピー機を導入、自宅に有線放送を入れたことが新聞や週刊誌の記事になった。

プライベートでは妻と共に社交ダンスを楽しみ、クルーズ船飛鳥で、マニラ、香港、小笠原諸島を巡る。南米、パリ、ニューヨーク、京都、北海道など国内外を旅行。得たインスピレーションによる作品や出版物も多い。

ぼくの気持ちはどんなに売れっ子になっても変わらない。基本はフリーターなんです。フリーターなんていうと、眉をひそめる人がいますが、その精神が大切なんです。日本人はひとつの限られた分野だけを長年やることが尊いと思っている人が多い。小説の挿し絵画家だったらそれ一筋といったような人が偉いとされる・・・ぼくは面白いと感じた仕事にはこれまですべてチャレンジしてきました。ファッションのデザイン、レコードやCDジャケットのデザイン、教育玩具のデザイン、インテリアのデザイン・・・昔と違っていまは寿命が長いですから、いろいろなことにチャレンジすることができるはずです。若い人たちにはさまざまな経験を仕事として生かせるようなプロフェッショナルなフリーターを目指してほしいですね」(2000年に「実業之日本社」のウェブサイトに掲載されたインタビュー記事より)

'80年代の後半からは俳句に深く興味を持つようになり、横書きの句集「イメージの時間」(河出書房新社)を出版。

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1991-2000(平成3-12)

2001-2016(平成13-28)

"沙羅双樹の花咲き散る下で釈迦八十歳の入滅
四月咲く沙羅の花がその二月十五日咲き散る
美しく? 悲しく? と涅磐の図を描く

  古代印度王家のプリンスがブッダになった!
  モテモテの長身ハンサムが粗衣粗食の独り旅
  その苦楽大落差の中で悟った八十歳の生涯……
  ブツブツ私の八十歳なんだった? と涅磐図描く

二千数百年前に八十歳生きるってのは凄い!
今でさえ長寿国の平均寿命を超える八十歳だ
遍歴苦行途中に一本の菩提樹下で悟りを得た
それから沙羅双樹の下までゆっくり充分の生涯

  私の場合、くよくよ苦楽むちゃくちゃの生涯だ
  でもね、ブッダの生涯に感じる余裕は生まれた
  ま、生まれりや消える命……ゆっくり絵でも描こう"

「ハッピーエンドレス」(電子出版)より。

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「ぼくが現在打ち込んでいるもののひとつに俳句があります。知り合いはそれを聞くとみんなびっくりする。なぜなら新しい物好きの長尾として有名ですから。しかし、俳句というのは忙しいこの世の中、もっとも現代的な表現方法なんです。これからは俳句も国際化していく時代で、横書きの本はむしろ時代に合っているとほめられたんです。

俳句には春夏秋冬という四つの季語があるんですが、新しい季語のようなものが必要になるということです。赤道直下で俳句をひねる人もいれば、宇宙パイロットが地球を眺めて一句ひねる場合も出てくる。地球をまるごと眺めれば春夏秋冬すべて入ってしまうし、宇宙船の中の季節は一体なんなのか(笑)」(2000年に「実業之日本社」のウェブサイトに掲載されたインタビュー記事より)

 

1994年 プロとアマチュアの壁を取り除いた著名な俳人、各界の俳句愛好家300人余りの作品1095句を収載した「プロアマオープン―平成大句会」(NHK出版)でのエキゾチックなイラストが話題に。

1997年~1998年週刊読売で「週読俳句会」企画と俳画を担当。

1999年 70歳の誕生日を迎える。

2000年にパソコン導入。過去著作の電子版や新装版も出る中、連載の終了も続き、ノートには「出版界不況の嵐。HP開設するも効果に悩む。新人生考える」のメモが見られる。

2005〜06年にかけ、 バサラ人間 」・「革命屋:女と革命と欲望」(よるひるプロ )の復刻版が出版され、若い世代にもあらためてインパクトを与える。
また「
絵で読む老子:無為を生きる( 小学館 )・「ブッダ 」川西蘭 文,長尾みのる 絵( 本願寺出版社)と言った本人の思索や人生観が投影された著書を出版。

​2010年 高願寺に涅槃像の襖絵を描く。

2014年に発刊された「おじいちゃんの絵ツィート」​(東海教育研究所)は、82歳当時に、自らの終末を意識しながら85歳での出版を予定して綴られた。波乱万丈の人生と次世代に伝えたい昭和を、絵と呟きで表現した108編である。

2015年 脳梗塞に倒れ右手が麻痺するが懸命のリハビリを続け作品を生み出す意欲を持ち続けて生涯現役を貫いた。

2016年 87歳で没。

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'00年頃、自身が描いた仕事場(左)。

主なき後もアトリエはそのままの状態に保たれています(右)。

この小さなスペースから無限大の創作物が生み出されました。

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